対人関係をイチからやり直す日々

前回の記事 では、コミュニケーション講座(聴きあう場の作り方)へ行ったら、隠していた心の闇と向き合って、色眼鏡を捨てて心が軽くなったところまでの話しでした。

今回は、その後どうなったかを、書きたいと思います。さてさて、三十路半ばのおっさんのその後は如何に。。

周囲からのフィードバックなど

あの記事を読んだ方や、その後ので、近しい人から、色々な感想を頂きました。代表的なものを紹介。

カミさん:「そんな言い方してない!」(確かにwただ、当時の私にはそう聞こえてたと解釈してください)

妹:「叩かれたことなんてあったっけ?」(辛すぎて忘れた!?それとも必要ない記憶だっただけ!?)

他、ねこちゃん変わったね〜だの、面白かっただの、メタ認知がどうとか。(難しい言葉ワカンナイw)

みなさん、読んで頂いて、ありがとうございます。

本当に向き合うべきものは毎日の一瞬

これ、よくアドラーやら色んな人が言ってるけど、一番勇気がいる作業やねんで。

あの講座へ行って、自分と向き合ってから、人と話すたび、特にお互いの大切なものにふれるたびに、それを感じる。

  • 子どもが転んで泣いているとき
  • 子どもが約束の時間を過ぎてもゲームをしているとき
  • 上の子が下の子に何かを強制させようとしているとき
  • 何か嫌なことがあって、それを他人にやめてもらうようにお願いをするとき
  • 仕事などがあって、家事や送迎ができないことをカミさんに相談するとき

などなど。過去の自分なら結構やらかしたってタイミングは、今は「学びの時間」になっていると感じる。

コミュニケーションの学び直し。

人生のどこかでツマヅイていた人が大人に(幸せに)変わって行くのって段階的で、その人がどの段階にいるのかって、その人が何ができて、何ができてないかで、おおよそ検討がつくとカミさんが言っていた。

そして、その段階は、人が赤ちゃんから大人になっていく段階と似ているそうな。カミさんが心理学的な西洋占星術を学んだことで、その発達段階を言語化することができているようだが、まだ自分には覚えられていないw(まだ大人になりきれていないと言える)

自分が大人に最も絶望したのは、おそらく中学校のとき。特に進路相談のときかなと思う。

キオク 進路相談の悪夢

私は中学校ぐらいのころは料理人になりたいと思っており、中卒で料理の専門学校へ行くことを希望していた。

ところが、中学校3年生のときの担任の先生は、学内でも厳しい方ことで知られる女性体育教諭で、悪事に対して強い口調で怒鳴るなど、とても怖かった先生だった。

おそらくその時、私はすでに「怒られることが怖い」人間になっていたように思う。自分が直接怒られなくても、他の生徒が怒られているのを見るだけで、かなりの恐怖だったのだと思う。

今思えば料理にこだわっていた理由も、料理はほとんど誰にも怒られなかったし、かなり褒められるポイントだったからだと思われる。

さて、進路がだいたい決まってくると、ほとんどの生徒は(夏ごろか秋か忘れたが)「推薦の希望」のプリントを出して、中学校に推薦枠にできるかどうかを審査してもらうのだが、私は出さなかった。

理由は、自分が推薦枠になる自信を失っており、そのような人間に選ばれる価値など無いと諦めていたからだ。親にも渡さなかったのだ。

そして、今でもかなり強く覚えていること。進路相談で親と三者面談に行ったあの日、先生は専門学校ではなく、高校卒業をすることを強くオススメしてきたのである。当時の私はその先生に逆らうことなどできず、「先生がそう言ってるからその通りにするしかない」と解釈し、料理の専門学校への道を辞めたのである。

つまり、自分が自分の人生を決める権利を放棄してしまったのである。まさに人生に絶望していた。それと同時に、オンラインゲームに逃げていった。

余談:高校進学後

もちろん人生万事塞翁が馬なので、そこから超無難思考で選んだ、「偏差値と学費の低い公立の工業高校」へ行ったことは、今ではそれなりに役に立っている。

一度、今回のテーマと外れる余談だが、そんな私が工業高校入試で、第一志望を一番人気の電子機械科、第二志望を二番人気の情報技術科としていた理由は忘れたが、基本的には「お勉強のとてもできる子」があまり来ない学校なので、ほどほどの受験勉強の私でも第一志望の電子機械科に受かることができた。

電子機械科は、学校内の科では1,2を争う偏差値で、一言で言えばロボットの技術を学ぶ場所なのだが、いざ入ってみると「電子、電気、情報、機械」の4つの科でそれぞれ学ぶことを複合したがゆえに、浅く広く学んで、少しだけロボットのことも学べる科であった。

その浅く広く学ぶが、当時の私には必要なことだったらしく、また、「情報」の先生がすごく好きなタイプの教え方をする先生だったのだ。私はプログラミングが楽しかった。プログラミングで、自分の好きなゲームを自分で作りたいと思った。

どこかの時点で料理人の夢を諦めたのは、某N○K番組で、とある(不幸な?)料理人が、「家では料理は絶対にしない。仕事にしてからやりたくなくなった。」みたいなことを言っていたので辞めたというのが、当時の私が語っていた理由だ。

今思えば、一番好きなことを仕事にする覚悟がなかったのだ。

オトコノコなので、プログラマを目指し始めてからは、同じプログラミングを学ぶなら、家から近くて女子の多い商業高校でも良かったという後悔もあったが。(電子機械科は女子が1名、男子が39名だった。)

今は希望あるのみ

一旦過去の話はこのへんにしておくが、そんなこんなで、中学校の時に絶望してた人間世界にも、それからも希望を見出したりまた絶望をしたりした。そして、今では希望しかない。

どんな人間も、それぞれ問題を抱えている。時には自分のことが伝わらずに苦労するが、毎日の一瞬一瞬を、愛と勇気を持って、大事に過ごしたい。


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