今まで、私がコミュニケーションだと思っていたものは、本物のコミュニケーションではなかった。

なんかモヤモヤとして、アウトプットしなくては、と思ったので、Twitterに書きなぐったが、UIがク○過ぎて面倒になったので、ブログ記事にまとめる。

今まで、私が単にコミュニケーションだと思っていたものは、本物のコミュニケーションではなかったというお話。

最近腑に落ちたこと

コミュニケーションにはトラウマからの脱出が必要

本当のコミュニケーションをするには、自分のハラとアタマがつながる必要がある。私がそう思い、私が本当のコミュニケーションができなかったのは、幼少期や少年時代に抱えたトラウマなどで、自分のハラとアタマの間に、開けてはいけない扉ができてしまっていたからだった。

そのような状態から脱するには、ちゃんと向き合うしかない。と今では思う。しかし、トラウマは普段は思い出せないようになっていた。

トラウマとはコンプレックスという言葉でも良いと思う。要は、受けた体験の記憶と感情が複雑に絡み合っていることで、円滑に気持ちが表現できない状態になっていることだと理解している。

トラウマから逃げると

トラウマと向き合わないとどうなるかというと、パートナー、家族、学校、会社、その他とまともなコミュニケーションはできないことになる。なぜなら、トラウマから逃れるためなら、人は嘘を付くし、失敗を隠すからだ。

それはどんな時に起きるかというと、約束の時間に遅れそうなときや、自分の子が失敗したとき、家事がうまく回らないとき、その他色々。これは前の記事でも書いたように思う。

今まで本当に辛かったことや、悲しかったこと、腹が立ったこと、本当に好きなこと、自分が大切にしたいモノのこと。それらすべて、ハラの中にはあったんだけど、扉が閉まっていたから出てこなかった。

どんな状態かと簡単に言うと、何かをしてもらって、「ありがとう」と言えなかったり、一言お願いすればいいことを相手の気が利かないせいにしたり、とにかくトラウマから逃れるために、「私は悪くない」と殻にこもる。

なぜトラウマができたか

私の場合は、小学校〜中学校にかけて、他人から怒られたことがトラウマとなっていた。理由はおそらく、他人から理不尽に怒られた時に、相談する相手がおらず、人生に絶望したからだと確信している。

最近思い出したのは、次のようなことである。

記憶の出来事

その1

中1のとき、知らん先輩にフレンドリーに話しかけたら、「なんで先輩に敬語を使わないのか」と詰め寄られたこと。

教室内を追い回され、どうしていいのかわからなかった。先輩に敬語を使わなきゃいけないって誰が決めたんだか!!お前らだけのルールなんて知らんがな!w

その2

人の少ない教室でマイケル・ジョーダンに関するダジャレを言ったら、バスケガチ勢の男子に胸ぐらを掴まれたこと。

マイケル・ジョーダンをバカにする目的ではないと話したら離してもらった。誰だよ「マイケル・ジョーダンの冗談は、ま、いける冗談だ」って考えたやつは!!w

その3

外で遊んだラジコンカーは家の中で遊んだら怒られそうだと思って、父が帰って来た時にこそっと隠したら、万引したから隠したと思われて、父に問い詰められたこと。

本当のことを言ってもどうせ怒るだろうから黙ってたら黙っていたことで怒られたwwいつも私の話を聴かない父が良くないんじゃんww

その4

ネットサーフィンに夢中で父の焼酎のおかわりを無視したら、ビールの空き缶が飛んできたこと。まぁまぁただの理不尽やんw

その5

自分が怒られたことのあることを、親戚の子に注意したら、「お前もやってただろ」と何故か怒られたこと。

怒られたからもうやってないのになんでまた怒られないかんねんww

その結果

こういったことが重なっていった結果、残ったのはボロボロの自分である。いつも自分は悪くないといい、他人を悪く評価し、自分が不遇なのはアイツのせいだと考える。

今では、「今までの自分は一体何だったのか」と、本当に思う。私が知っている限りでは、一度どん底に落ちて再び立ち上がった人たちは、みんな口を揃えて、そう言う。

絶望すると人はどんな悪事もできる

多分だけど、人間は辛いときや悲しいときに、誰かそばにいて、「辛いよね」「悲しいよね」って、言ってほしいイキモノなんだ。それがないと、人生に絶望し、どんな悪いことだってできる。

私の場合は、嘘をついて人に責任をなすりつけたり、人の陰口を言ったりしたことがある。

どうやら人間ってやつは、「誰も私の気持ちなんてわかってくれないんだ。」と絶望すると、私の気持ちをわかってくれないヤツには、嘘をついてもいいし、ケガをさせてもいいし、○したり○○したりしても、自分にとってそれが正しいことになってしまうようだ。

最近起こる変な事件(スシローの醤油差しをなめてみたり、私はトランス女子と称して更衣室に堂々と入ったり、他)も、起こるべくして起こっており、起きて当然なのだ。人々がわかりあえない限り、どんなルールを作ろうが、何らかの事件を起こす人間というのは、一向に減らない。 武器に使えるものを規制しようと、監視カメラを設置しようと、表現方法が変わるだけだ。

そんなことを常々考えている私は、人々がいちいち正義感を振りかざして「あんなことをするのは悪いヤツだ」「悪いヤツには罰を」などというのが見ると、本当に気持ち悪くて吐き気がする。

誰も悪くなんて無いのだ

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉が本当に腑に落ちる。すべての人は悪くないのだ。 ウクライナ も ロシア も、どちらの人も間違っていない。ただコミュニケーションに失敗して、手が出ちゃったのは、両者及びその周辺諸国の責任である。

関係ない第三者が「ロシア が侵略した」だとか、「プーチンが悪い」とか言ってるのも、本当にヘドが出るのでやめてほしい。メディアも政府も誰も本当のことなんて言わないんだから静観する以外は無いだろうって私は思う。なぜなら、どちらかの味方をすることは、もう一方への敵対行為だからだ。それはしたくない。もちろん、助けを求めている市民を見捨てるわけではない。

本当のコミュニケーションとは

本題に戻ろう。私たちはあまりにも、本当のコミュニケーションについて知らなさすぎると思う。それをどういう時に感じるかと言うと、誰かが自分自身を「コミュ障」とか言うとき、陰キャ陽キャとか言うとき。私にはそれらが愛らしくもあるのだが。

私は、「精神病」「コミュ障」「陰キャ」「根暗」「対人恐怖症」の全ては本来は存在しないと思っている。本来というのは、おおよそ「人間が定義しなければ」という意味で良いと思う。他者あるいは自分で評価しない限り、それらは存在しない、絶対的な定義がないのだ。

私の考えるコミュニケーションの理想

私が本当のコミュニケーションと呼んでいることとはなにか、と言う話しをしよう。 超シンプルである。

自分の思ったことを本当の気持ちの言葉で伝える。相手の本当の気持ちを聴く。

これだけ。

本当の気持ちの言葉っていうのは、「嬉しい」「楽しい」「悲しい」「腹が立つ」みたいなヤツである。トラウマの中にいる人がよく使う、「傷つけられた」「ヒドいことをされた」は本当の言葉じゃない。

本当の気持ちを伝える言葉には、「私」しかいない。「あの人」が入ってきたら、別のモノが混じってくる。そして、その別のモノが「あの人」に聴こえると、「あの人」は私の話を聴くことができなくなってしまうんだ。

別のモノっていうのは、ひろゆき氏風に言うと、「それってあなたの感想ですよね?」ってやつで、勝手に相手を評価している言葉である。

なんでコミュニケーションがうまくいかないか

例えるならば、「助けてほしい」って書いた紙を差し出せばいいところを、ナイフに「助けてほしい」って書いてあるものだから、受け取る側は突きつけられたナイフをどう受けるかに集中してしまうのだ。

なぜナイフに書いてしまうのか、そこにトラウマが関わってくる。 過去に助けてほしい時に助けてもらえなかった経験や、失敗を責められた経験、そんなモノが蘇ってくると、人は自分を守るために、ナイフを手にしてしまう、と私は考えている。

手紙では気持ちのコミュニケーションができるけど、ナイフだと危険すぎてコミュニケーションはできない。

しかし、受け取る側が、冷静にナイフに書いてある文字を読むことができれば、本当のコミュニケーションに近づく事ができる。

おわり

ここまでがファーストステップ。

結婚10年にして、やっと妻とコミュニケーションの取れるようになった、三児の父の独り言でした。


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