氷山

この世界には善と悪は存在しない

道を歩いてて、大学生ぐらいの年齢の集団から「ありえない!」という言葉が、立て続けに聞こえてきた。

世の中は「ありえない」ことばかりなのが当然

結論から言うと、「ありえない」を連発する人は「自分の見た世界」というおとぎ話の中で生きているが、そのことに気づいてないのだと僕は考えている。この世は氷山と同じで、表面に見えるものよりも、見えない部分の方が圧倒的に大きい。見えない部分が無いと思っているから、「ありえない」という言葉が言えるのだと思う。

氷山
Pexels / Pixabay

こういった「自分の見た世界」が正しいと思っている人は、物事の本質が見えていないことに気づいていない。自分が善で正義の味方だと勘違いしているからこそ、「ありえない」と言えると僕は見ている。ぶっちゃけアンパ○マンや戦隊モノ・プリ○ュアなとのヒーローストーリーの見過ぎ。

「ありえない」といった背景には、「やってはいけないことをした」とか、「私には考えられないようなことをした」とか、そういうのがあるのだろうと思う。

そして、この思考のベースに、「善と悪の判断」というのがあると思う。

善ってなに?

そういった人たちにとって、悪は「悪の枢軸国」や「テロ組織」」や「腐敗菌」や「危険な動物」と設定され、善は「自国」や「国際的な組織」や「発酵菌」や「可愛い動物」などが設定される。本人は善は最初から善で悪は最初から悪だとでも思っているだろう。菓子パンとばい菌の物語のように。

泥棒が産まれたときから泥棒というわけではないように、本当の世界には悪を目的にして生きる「人間」も「動植物」も「菌」も存在しない。現実の世界で起きる「テロや戦争」も「ご飯が腐ること」も「病原菌に感染すること」も全ては視点がどこにあるかで見えてくるものが違う。

なぜ戦争が起きるか

戦争が起きるのは、「悪の組織」が我々を攻撃することが主目的だったからではない。彼らの「主目的」は「自分たちが生き残ること」である。

国際的な組織に属している我々にとっては、「国際テロ組織」や「悪の枢軸国」と言った存在を「悪」と捉えがちだ。しかし、彼らはなぜそのような行動にでるか、考えたことがあるだろうか。

身近な菌で考えてみよう。ご飯が腐るのも、病原菌が病気を引き起こすのも、味噌が発酵するのも、納豆が発酵するのも、すべて「菌」が何かを餌にして繁栄している「生命の営み」があるだけで、本質的に同じことである。

単にその「菌」と言う生き物たちが「自分たちが生き残るため」に、糖分を餌に繁殖することを選んだか、生き物を餌に繁殖することを選んだか、動物も殺す毒を出して自分たちを食べられないようにすることを選んだかの違いである。

「菌」は「自らの繁栄」という正義のために、ご飯を腐らせたり、生き物を病気にしたり、味噌を作ったり、納豆を作ったりする。あくまでも「自分たちが生き残る」ために。

「悪」はあくまでも、我々にとって害があるだけに過ぎず、我々が悪だと思っている彼らの視点にたてば、「悪」はそこにはない。自らの身を守るためであったり、自らの繁栄のためであったりする。とすると、我々が絶対的な「善」である理由などどこにもない。つまり、「悪の組織」が存在するのは、我々が「善の価値観」を持った、「正義の組織」を設定しているからである。

善だと思っているものが善とは限らない

例えば我々が属している国際組織について考えてみる。表面上は「みんなで話し合って問題を解決して平等と平和を守る」ための善の組織である。これは戦争が無い方が「自分たちが生き残る」ために都合が良いので、世界中の多くの人々の願いであることは違いない。

しかし、例えばその国際組織は、白人たちの考えがベースになっており、有色人種への差別が存在したり、有色人種に不当な金銭の搾取や何らかの束縛があったとしたら、その国際組織に対して有色人種はどのような行動にでるだろうか?国際組織の方が多数であったとしても、有色人種にとってはその国際組織が「悪」になってしまう。過去、実際にそのようなことがあった。

もっと身近なものでも言える。コップ1杯の水は、喉が渇いた人にとって、有益なものである。一方、1万トンの水タンクは、転落したり決壊したりすれば危険極まりない不利益な存在と言える。しかし、少しずつ利用できれば、やはり有益なものである。逆にコップ1杯の水でも赤ん坊が溺死することがある。生きていくのに必要不可欠な水でさえ、善にも悪にもなりうる。

つまり、何かに善とまたは悪を設定するということは、そのものの一つの側面をとある視点から評価しただけにすぎず、他の側面の可能性を排除しているのだ。

絶対的な善悪の不存在

善だと言われているものは、その状態や見えている姿によって、一時的に「善」と扱われているだけに過ぎず、絶対的な善などは存在しない。ということは「善」と「悪」は、「自分の見ている世界」の中でだけ意味を持つ単なる価値観の問題。善とか悪とか言うと聞こえが良いが、我々にとって都合の良い存在が「善」で逆が「悪」と設定しているだけの話である。

「善い行いをするべき」と言う規範を噛み砕けば、あくまでも「表面上、多数にとっての有益と思われる行い」をするべきと言うだけで、この世に絶対的な善行は存在しない。

善悪に欠けている視点

今も先に述べた国際組織に対峙する存在が居ないだろうか、彼らには一体何が見えているのかは、国際組織に属するものにはなかなか見えてこない。その理由の一つとしては人間には思考にバイアスがかかり、良いと思っていることは良い部分しか見えにくいからである。同じように、「悪の組織」と決めつけている国や宗教集団の良い部分は、我々には見えてこない。「悪」のバイアスをかけているからである。

そのものが有益か不利益か複合的にそのものを見て評価することも重要だが、もっと大事なことがある。我々が善または悪と考えている存在の逆の一面は、我々には見えてこない。そんなものは見たくないのである。都合の悪い現実は見なかったことにするのが人間の性質である。

都合の悪いことは見なかったことにして考えないのは、まるでおとぎ話の中で生きているようである。多くのおとぎ話では主人公に都合の良いことしか起きない。著者や読者がそれを望んでいるからである。

アン○ンマンが正義と信じて疑わない人々は、彼が存在するからこそバイ○ンマンが成立する…つまり彼が虫歯(ばい菌)の餌である砂糖や糖質の塊であるという現実には目を向けず、ただ彼がばい菌と戦う西部劇を見て喜ぶのだ。

「ありえない」の心理

最初に戻って、ありえないという心理を考えてみよう。ありえないのは、その言葉を発した本人にとってありえないだけである。目の前で起こったことなのに「ありえない(=存在しない)」という論法は霞が関ぐらいでしか通用しない。それはもちろん感嘆を表現する言葉だから使うわけで、そのニュアンスは「(善悪として)そのようなことは認められない」とか「自分には考えもつかない」ということなのだ。つまり「ありえない」行為が、その人にとって何らかの不利益をもたらすと考えたということで、自分の正義を主張しているだけなのである。

バカの壁が存在してるなぁと思う。

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