【保存版】絶望的な日本農業を変える方法を模索

先日、愛川町のことを詳しい方に色々聞いて、うーんと帰り道で考えた。

人間が生きる本質はINAKAにある

その方の言うところ、愛川町は、日本の平均的な地方の田舎町。一次産業から三次産業まであり、ほとんど建物のない調整区域から、高齢者や外国人も多い団地まであり、高齢化率(25%)など、つまり日本の縮図である。

日本は今、地方と都市部に分かれていて、都市部が国を動かしているようにみえるが、地方の田舎町にある農家が、都市の人の分も野菜や米を作っており、さらに、都市の人が出した二酸化炭素を田舎町の木々や野菜が酸素に戻す。発電所やダムも田舎にあるなど、都市の人の生きる基本的な部分は、ほとんど田舎町が生産している。

つまり、イナカの自然や広い土地がなきゃ、都市の人たちは、ビルというコンクリートの狭い檻で死んでしまう。という話を聞いた。ごもっともだ。

イナカを差別用語のように扱う人がいるが、都会よりも人間の生きる本質があるのが、「INAKA」と言う最高にクールな場所だと僕は思っている。小さな家庭で例えると、表面上はお父さんが仕事に出て、お金をもらってきて生活しているようで、実際にはせっせとお母さんが菜園や料理をして食べ物を作っている。

愛川町は日本の縮図、そしてそれは、企業、地域、家庭で起こっていることが積み重なって起きている。愛川町で起きていることや日本全国の地方で起きていることが、今の「保育園落ちた日本死ね」の日本を作っている。

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やりたいこと

自分の目指したいところは、目下としては、美味しい野菜を作り、近隣の人や友人などに美味しい野菜も食べてもらいつつ、ついでに、子育て支援なんかもやっちゃったりなんかして、子育てを自分もみんなも楽になる仕組みを作りたい。

自分だけ美味しい野菜が食べたいわけではない、自分だけが美味しい野菜を食べるのは簡単だ。作った野菜を誰にもあげないで、作り方も教えなければいい。でも、それが今の日本の縮図。みんながそうするといつまでたっても美味しい野菜が市場に出回らない。

美味しい野菜を、できるだけ多くの人に食べてもらい、多くの人が美味しい野菜とそうでない野菜の違いがわかるようになり、簡単に美味しい野菜を手に入れることが出来るようになって欲しいのだ。

子育ても同じようなことで、自分だけが周りの親たちとグループを作って、楽になっても、グループ外の人や次の世代に繋がらなきゃ意味がない。

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最終的には「自分の幸せを追求して環境を変えていったら、みんなでしあわせになっちゃった世の中」を目指したいと思っている。

自分が農家になっても、食べさせられる人数は限界がある。だから、本当に農家だけがやりたいわけではないということだと思う。

まずは、みんなが美味しい野菜を食べるために必要なのは、なんだろう。

美味しい野菜が無い日本

愛川町に移住し、こだわった生産者とつながり、今までの野菜の味との違いに驚いた。自分で作った野菜も、明らかに普通の野菜とは違う。そもそも日本には美味しい野菜が滅多に無いらしい。

なぜ、日本には美味しい野菜があまりないのだろうか。ここに焦点を当ててみた。「日本の野菜より外国の野菜が美味しかった」と口を揃えて言う帰国子女らに話を聞いたり、自然農法などのこだわった生産法の野菜を食べたり、自分で農業を勉強したりしていく中で、神門善久氏の「日本農業の正しい絶望法」を読んで、ついに腑に落ちた。

どうやら生産者側と消費者側の両方が、相互協力しあって、美味しくない野菜を守るために頑張っている(爆)

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★消費者

1.料理や食材選びのマニュアル化

例えば、食材を味見せずに使い、料理が完成してから、「なんか変な味」などと言う。食材一つ一つの味を知らない人が多すぎる。このレシピが美味しかったなどと、料理の旨い不味いはレシピが主体。

「野菜の選び方は。。。」なんて、自称料理研究家などが、「緑の濃い野菜を選びます」などと間違った知識を披露していたりするのを鵜呑み。緑の濃い野菜を買う。さらには「虫食いが多いほど農薬が使われていないし、虫が食うほど美味しい」などと選ぶ。実際にはどちらも不味いが、両方買って真剣に食べ比べる人は皆無だろう。

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そもそも直売所などでなければ、例えば小松菜にしろ比較できるものが複数置いてある事自体があまりない。これにはスーパーなどの市場で野菜を味見できないシステムにも一部問題があると思うし、消費者が不味い野菜に当たっても、多くは深く考えなかったり、忘れてしまうことにもあると思う。

こだわった店であれば、タテマエはバイヤーが美味しい野菜を選んできてくれる場合もあるが、そのバイヤーが正常な味覚を持っているとは限らない。有機やなんとか農法という言葉に騙されてもいけない。現状、有機で美味しい野菜はほとんど無い。なぜかは後述。

今、本当に美味しい野菜を手に入れるには、自分で生産者を選ばなければならない。本当にこだわって育てている方を探し、その人から買うのが最も確実な方法だ。確かな味覚で美味しい野菜だけを常時売っている店は都会には少しはあるかもしれないが、地方のスーパーなどでは見たことがない。あったら教えてほしいもんだ。

2.味覚の鈍化

レシピによるマニュアル化にも通じるが、食卓に何らかの形で化学調味料や砂糖などの強い味付けをするものがあるのが普通。味の素や砂糖を置いていなくても、醤油にアミノ酸が入っていたり、愛用しているのが「なんとかエキス」という化学調味料まがいが入ったコンソメ味調味料だったりする。結果、手作り料理なのに味は加工食品と何ら変わりないことになる。

食の安全に興味を持って、こだわった調味料しか置いていなくても、黒砂糖・はちみつ・みりんなどの甘味料を多用したりなど。甘みが異様に強いこともある。

よーするに、人々は人工的な旨味や、甘みをつけて食べるのが普通になっている。

結果的に、食材である野菜に求めるのは「味」ではなく、「パッケージやPOPに書いてある広告情報」「見た目」「柔らかさ」「扱いやすさ」となる。

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★生産者

1.野菜の工業製品化や経済性による旬や美味しさの無視

今、スーパーなどのお店には、野菜は加工食品と同じ工業製品かと言うぐらい、年中同じ野菜が売られている。それは、レシピ依存の消費者のニーズが年中同じということもあるし、加工食品業者は年中同じ材料を必要とするのもある。生産者は食品工業やスーパーなどの販売店の言いなりに、年中同じ野菜を作るしかない。

しかし野菜は、食用の植物である。四季のある日本では野山に生える植物は季節によって違うのに、なぜ野菜という植物が年中同じなのだろうか。季節で違うのは産地と値段だけになってきた。なぜだろうか。

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野菜にはご存知、旬というものが存在する。旬の野菜は美味しいし、安い。なにより夏に旬のキュウリを夏に食べると涼しく感じるし、冬に大根や人参などの根菜を食べると暖かくなる感じがする。

野菜の旬を生産者や販売側から見れば、野菜の生理に合って簡単に美味しく作れる一方、その野菜が一番多く出回る時期であり、値段が一番安い時期であるから、それでは全然儲からないという矛盾が生じる。逆に、旬ではない時期に作ると、手間がかかってライバルが少ないから少々品質や味が落ちても高く売れるのだ。

市場価格の季節による差は皆さん御存知の通り、夏のキュウリは3~5本で100円、冬のキュウリは1本100~150円だ。

誰だって、このカネ本位社会で生きるためには少しでも収入が多い方が良いのは自然だ。旬ではない時期に作るため、生産者は色々工夫する。

寒さや雨を避けるためにビニールを貼ったり、温度を上げて早く作るために、石油でビニールハウスを温めたり、害虫の多い時期に作るために農薬を使ったり、土壌の汚染や暑さによる病気を予防するために農薬を使ったりだ。(もちろん、これらのことが全て悪というわけではない。)

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オンシツコナジラミという、温室でよく見られるが故に、名前になってしまった可哀想な虫さんもいる。温室は暖かく、天敵も少ないため、時に大量発生して農業者を悩ませる。

野菜という植物は旬ではない時期に作ると、あれこれ資材や農薬で守ったところで、色々な原因で病気や害虫やられやすくなる。そのために食味も低下し、化学薬品漬け。冬に寒い地域でトマトを作ると、原価の殆どは燃料代に消えるし、夏に暑い地域で作る葉物野菜は、農薬を使わないと話にならない。

昔に比べて野菜の栄養価が下がっているというのには、旬ではない時期に作っている野菜が増えているからだという意見もあるそうだ。

名産地とはある意味ラッキーな地域だ。北海道や高原地域は、真夏にタマネギや葉物野菜などが旬で露地で作れるし、冬のトマトは鹿児島あたりで作るのが加温も少なくて済み、低コストだ。

まとめると、農家は収入のために手間を掛けて無理やり季節外に野菜を作っているのだ。その作物が出荷できれば合格、市場価値には美味しく作る必要がないのだから、美味しい野菜が一般的なスーパーに並ぶ理由はない。

2.生産者の技能の低下

農業の機械化、大規模化が叫ばれ、農業はどんどんマニュアル化している。多くの農家は農協や種苗業者の作ったマニュアルを鵜呑みにする。野菜がマニュアル通りに美味しく作れるなら簡単だ。誰も自分で考えなくていいから。消費者がレシピ通りに作りたがるのと同じ理由だ。

しかし、マニュアルとしては誰が作っても同じようになって欲しいところだが、野菜は自然環境に左右される植物であるから、異常気象が起こったり、地域が違えばうまくいかないこともある。中途半端な栽培技術では、自然の変化に太刀打ちできない。

天気が良ければそれなりに美味しいものができるかもしれないが、天気が悪いと農薬を使わないと収穫できないほど、不健康な野菜ができてしまう。もちろん、大筋でマニュアルに従っていても、異常があれば臨機応変に対応できれば問題はない。

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マニュアル化が進んだ要因としては、それを行政や識者が勧めていることもあるが、農家の置かれている状況が関係する。

そもそも昔からの農家は兼業農家が増え、農業の収入はあまり必要ないから、本気で農業をやる必要がない。ほとんどは都市の住人よりも年収が高い上に土地まで持っている。真剣に頑張る動機が無いのだ。

そして、農業を志して踏み込んだ者も、一度小作農家になってしまうと、一般的なやり方では生活苦により忙殺され、十分に勉強している暇がない。補助金や借金使っていれば、苦しいからという理由でやめることができない。

一部にいた名人農家も、高齢化と後継者不足により、その技能は伝承されない。

多くの農家は、農協や種苗会社の提示するマニュアル通りにエッサホイサと一生懸命やれば、それで一応生計が成り立ってしまい、それ以上は深く考える必要がない。近くに先進的なことをする農家がいれば、あいつは馬鹿だと村八分で非国民扱いだ。

さらに既存の出荷システムで出荷する限り、野菜は規格化され、どんなに旨くても不味くても同じ値段で限りなく低い。高く売るには人脈を作って、農家が自ら商売人になるしかない。言っちゃ悪いが職人気質の人ほど、商売が下手だ。そんな環境で誰が本気で美味しい野菜を作ろうと思うのだろうか。美味しい野菜が欲しければ畑の隅で作る自家用の野菜が美味しくできれば十分なのだ。

そんな酷い環境の中で、少し意識の高い人が、差別化や食の安全のために有機栽培だなんて言ってやっている多くも、実際には発酵の見極めが不十分な未熟堆肥を大量投入され、言い換えればまだ土になっていないウ●コの上で育った野菜であり、化学肥料で育った野菜よりも腐りやすくて臭くて苦くて不味い不健康な野菜を、平然と高く売っていたりする。勘違い有機栽培により、畑から「近くに畜舎でもあるのか」という匂いがする酷いケースも有る。

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それには、制度上の問題もある。大量の畜糞と言う反自然な肥料で育てられた野菜は病気になるので、使用を認められた比較的環境に優しい農薬を使うことができる。多く行われていることは、化学肥料が堆肥に、化学農薬がマイルドな農薬に変わっただけで、やっていることは既存の慣行農法とあまり変わらない。お金で有機認証を買っているようなものだ。この有機認証制度に意味はあるのだろうか。

「産業廃棄物を畑に合法投棄して儲けるための仕組み」と言う見方をする人もいるぐらいだ。儲かるのは農家ではなく、認証団体だ。

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そもそも農業とは食用の植物を大量に育てるというビッグなテーマで、農学だけでなく、植物学、生物学、発酵学など、自然科学の幅広い知識や、細かな変化も逃さない観察力と危機察知能力、自然に多く触れ、どうすれば植物が健康に育つのかという自然観など、ものすごく多岐にわたる能力を求められる。名人農家とはそういう能力を身につけた人のことだ。

その上で、名人農家は必ず土作りにこだわるそうだ。名人はその臨機応変な対応能力で、野菜を美味しく作るだけではなく、異常気象時も収量を確保できるからこそ名人なのだ。そのような農家が先述の通り減ってきている。

名人になれない人が増えたのは、今の自分で考えない一律暗記教育にも問題があると僕は思っている。町工場や飲食店の職人も、日本人の若者はちょっと厳しくするだけですぐに辞めてしまい、使い物にならないから後継者が育たないと言う。

学校は「言われたとおりにしかやってはいけない世界」だが、ほとんどの現場は「言われた通り以上のことをやらないと生きていけない世界」なのだ。

打たれ強いかどうかではない。今の若者は、言われた通りにはできる。言われないことができないのだ。自分の考えを否定されて育てられてきたがために、彼らは社会と学校のギャップに苦しんでいるのだ。

3,食の多様化による外来野菜の増加

農業が難しい原因は、もう一つある。

食卓を賑わせているほとんどの野菜は外国で生まれた外来種である。多くが科学の発達してきた明治時代以降に日本で栽培されるようになっている。実は江戸時代以前にも栽培された記録があるが、定着せずに消えていったり、一部地域だけに残った野菜というのも多くある。

なぜ定着しなかったかというと、日本の四季の気候には合わなかったからだ。冬は氷点下になったり霜がおりたりすれば熱帯の植物は枯れるし、夏は高温多湿で乾燥地域や冷涼地域の野菜には耐えられない。

外国から種を持ってきて、収穫までできても種が取れなければ、その野菜は日本に定着しなかった。今は種も毎年輸入できるから、そこは問題にならなくなった。今や多くの野菜が、外国で育種されている。これにも日本では難しかったり、賃金が高かったり、複数の要因がある。

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明治以降に食用として作られるようになった野菜は、トマト、ハクサイ、オクラ、ピーマン、レタス、キャベツ、タマネギなどだそうだ。ジャガイモも現在の品種は明治以降だったりする。さつまいもだって、名前の通り、温かい薩摩国で作ることができる芋だったが、情報やテクノロジーの発展により、多くの地域で作られるようになった。

例えばトマトは南米のアンデス高原が原産。寒くもなく、冷涼で乾燥した気候を好む多年草だ。日本の夏の高温多湿で露地栽培をしても、水っぽかったり、雨が降れば割れてしまう。冬に寒くなれば枯れてしまうため、日本では一年草だ。秋に雨が少なくなり、寒くなる寸前の短い期間が、トマトが露地で一番美味しいと思う。そして、美味しいトマトを安定して作るなら、冬にハウスで作ることだ。加温にコストがかかるが、原産地を考えればそれがトマトにとっての最善だ。

最近は西洋野菜がまたブームになっており、パースニップやセルリアックなどがメディアに紹介されるなど、新顔野菜を模索する動きあるが、今まで定着しなかった理由を考えれば、今後も定着しない可能性もあるし、作ることができてもコストが掛かったり、美味しくないことも考えられる。運良く簡単に作れる野菜が見つかればシメたもんだが、種子の個人輸入が簡単になっている以上、すぐに値段は下がるだろう。

本当に美味しい野菜が食べたければ、適した時期に、適した場所で、適した作物を作る「適期適地適作」が必要になるだけではなく、原産地の気候に合わせた栽培方法が必要になる。

しかし、味が市場に求められていないため、生産者はそこまでやる必要がない。ただでさえ大変で難しい農業を、更に難しくするなんて、普通はやらない。

4.種子の品種の問題

現在の種子は、品種改良が進んでおり、色々な目的で品種改良がされているが、その多くは、市場性と作りやすさだ。出荷時期や形がよく揃う、荷痛みがしない、病気や害虫に強いなどの経済的な理由によって、F1品種という人工的な交配された品種が一般的になっており、異品種と交配されることで、野菜は本来の味を失っている。

例えば小松菜には、本来は出荷時に折れやすいほど柔らかくて、生で食べられほど癖がなかったものが、タアサイやチンゲンサイと交配されて、異様に緑が濃く、固くて青臭みのあるものに変わってしまっている。葉の形もよく見ると違う。

ほうれん草にしたって、「寒締め」などとそれらしく売られている「縮みほうれん草」は、寒さで縮んだわけではなく、縮むように、とある西洋種が交配されているだけだ。甘いがアクもある。本来の日本のほうれん草は、寒さにあたってもそんな風な見た目にはならないし、西洋種よりアクがなくて、緑も薄い。その代わりに春になると花が咲いてしまうため、冬にしか作ることができない。だから、市場原理で日本のホウレンソウは消えつつある。

赤根ほうれん草の葉
赤根ほうれん草

種苗業者や生産者は、年中同じ野菜を、産地から程遠いお店に、痛みにくいように、などということを考えているため、美味しさは2の次どころかないがしろである。もちろん、美味しさが収入に直結しないからだ。

5,広告宣伝

イマドキ、野菜も広告宣伝で売ることが多く行われている。消費者が野菜の味がわからなくなっており、味見をせずに買うシステムになっているのも原因の1つだが、どんな野菜も適切に広告をすれば売れてしまう。

「あまり美味しくない野菜」にも、安心な地場産などと書いて生産者の顔でも貼っておけば許される風潮がある。全く根拠が無いのになんとなく安心してしまうのだ。ちなみに美味しい野菜を作る生産者はそんなことしなくても、野菜の味で勝負できるから、それをする必要はない。

また、甘ければOKという風潮もある。糖度だけを重視した栽培をし、糖度を測定して掲示し、果物並みの糖度だなんて書いて売ったりする。糖度が高いと、食べた瞬間に「甘い!すごい!」と思うだろうが、野菜の味は糖度だけではない。他の野菜と同じく、後味の悪い野菜になる。

美味しい野菜がない理由のまとめ

以上の原因が主なものだと思うが、食の多様化や経済のために、石油や農薬を大量に使う健康や環境に無関心な国が日本であり、それでいて野菜の味なんて気にしない消費者や加工業者が、見た目や広告が良くて、後は値段さえ安ければバンバン買ってくれる国が日本。日本産は安全、有機栽培は美味しいなどと言うのは幻想。

美味しさによって、値段や売れ行きが左右されるのであれば、もっとマシな事になっていると思うが、今の世の中の仕組みはそうではない。トマトが欲しいと言えば、トマトの形と見た目をしていればOKなのだ。味にしたって、エグミや風味が悪くても、糖度さえ高ければOKなのだ。農家だけの問題ではない。消費者が加工食品や特定の料理レシピに頼りすぎている結果でもある。

日本の未来

こういったことと同じような構図が色々な業界・地域で発生しており、色々なことが重なって病気になる人々がいる。

これらがわかった上で、できることはなんだろうか。まずは、自分の子どもたちが大きくなったときに普通に美味しい野菜が日本中どこでも食べられることを目指して、色々なことをしばらく考えながら、活路を見出したい。


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